投資家が明かす人的資本経営の真髄|株価と採用力を高める人への投資

「人事の取り組みは、本当に株価に影響するのか?」「採用活動において、有価証券報告書を読む就活生が増えているって本当?」そんな疑問に、17人の有力投資家と専門家が正面から答えた書籍があります。市川祐子著『有力投資家が明かす「株価」と「採用」に効く人的資本経営』(日経BP、2025年10月刊行)です。本記事では、その核心的なメッセージと実践的なフレームワークを、わかりやすく解説します。
書籍の概要と著者について
著者の市川祐子氏は、楽天(現・楽天グループ)でIR部長を12年間務め、NECグループでも15年にわたりIR(投資家向け広報)を担当したキャリアをもちます。現在はマーケットリバー代表取締役として、一橋大学財務リーダーシップ・プログラム(HFLP)の非常勤講師も務め、日本証券アナリスト協会認定アナリスト(CMA)でもあります。
本書は、2023年7月から約1年半にわたって行ったインタビュー連載「有力投資家は『人への投資』をどう考えているのか」(日経BP「Human Capital Online」)を大幅加筆・修正した一冊です。SBIレオスひふみの藤野英人氏、コモンズ投信の伊井哲郎氏、アセットマネジメントOneの寺沢徹氏、大和アセットマネジメントの寺島正氏など17人の著名投資家・専門家のリアルな声が詰まっています。
なぜ今、人的資本経営が重視されるのか
日本のエンゲージメント率は世界最低水準
人的資本経営が注目される背景には、深刻なデータがあります。調査会社ギャラップによると、日本の「仕事に熱意を持って働く社員」の割合はわずか7%で、世界平均21%を大きく下回り、世界最低水準にあります。
この背景には、日本で自律的なキャリア構築の文化が十分に根付いていないことが関係しています。不満を抱えたまま会社に留まる「静かな退職(Quiet Quitting)」と呼ばれる現象が広がっているのです。一方で転職市場の活性化により「焦りの転職」も増え、企業は人材の質・量の両面で課題を抱えています。
30年間続いた「人への投資」の縮小
本書では、日本企業の人的資本投資が過去30年にわたり減少し続けたという問題が指摘されています。この投資縮小が、ビジネスモデル変革や事業構造転換の遅れにつながったとする見方は、経済産業省が公表したレポートでも言及されています。
有価証券報告書(有報)と人的資本開示義務化
義務化の背景と対象企業
2023年3月期決算以降、金融商品取引法に基づき有価証券報告書を提出する大手上場企業(約4,000社)を対象に、人的資本に関する情報開示が義務化されました。
本書は有報を「投資家のための企業の成績表」と表現しており、その重要性を強調しています。著者は「有報や統合レポートは、株主や投資家だけでなく、就活生などの求職者もチェックする人が増えている」と指摘します。採用活動の観点からも、有報の質が企業の魅力に直結する時代が来ているのです。
投資家が注目する指標
本書に登場する投資家が特に注目する指標として浮かび上がるのが、「従業員エンゲージメント」と「離職率」です。大和アセットマネジメントの寺島正氏は「ESGは『非』財務情報ではなく、『未』財務情報だ」と語ります。これは、「現時点では財務数値に表れていないが、将来的に必ず財務に影響する情報」という意味です。JBpress 寺島氏インタビュー記事
連結データでのエンゲージメント開示、女性管理職比率、離職率の動向など、投資家は複数の指標を組み合わせながら、「この会社は長期で成長できるか」を判断しているのです。
価値創造ストーリーのつくりかた
ナラティブとは何か
フィデリティ投信は、投資家が求める「ストーリー」とは物語調のことではなく、「人材投資が企業価値向上に結び付く道筋が見えるかどうか」だと解説します。ストーリーの最終的な「オチ」が「価値創造」になっていることで、はじめて投資家に「伝わる」開示となるのです。
単なる施策の羅列や、事業戦略と人材育成方針のつながりがない開示は、投資家には響きません。本書では、以下の6ステップが価値創造ストーリーの基本軸として示されています。
①パーパス・理念 → ②外部環境の認識 → ③経営戦略 → ④人材戦略(人材ポートフォリオ・カルチャー醸成) → ⑤指標・KPI → ⑥価値創造
この流れを一貫して描くことで、投資家は「ビジネスモデルと人材戦略の一貫性」を理解できるようになります。
開示の好事例:リクルートと味の素
コモンズ投信の伊井哲郎氏が好事例として挙げるのがリクルートHDの有報です。モノクロではなくカラーで図表を多用し、「2031年3月期までに取締役・監査役全体の女性比率を約50%にする」というマイルストーンを明示したことが高く評価されています。
また、味の素はエンゲージメントサーベイにおける「志への共感」「顧客志向」「公正な評価」「生産性向上」の各項目が、1人あたりの売上高や事業利益と正の相関を持つことを、ストーリーとして関連づけて開示しています。味の素 ASV Report 2025
人材ポートフォリオとジョブ型人事制度
経営戦略・人材戦略・DX戦略の三位一体
アセットマネジメントOneの寺沢徹氏は、生産性向上にはDXが不可欠であり、「経営戦略と人材戦略とDX戦略の三位一体で進めることが必要だ」と述べています。事業変革の「外枠」だけを変え、「中の人」の変革が伴わなければ、企業は本質的には変わらないという指摘です。
ジョブ型人事制度が人材ポートフォリオを支える
PwCコンサルティングの土橋隼人氏は、人材ポートフォリオ戦略を実現するには、ジョブ型人事制度の導入が不可欠だと説明します。ジョブ型が定着すると、企業は経営戦略の達成に必要なスキルを「職務記述書」として可視化することが求められます。企業が必要とするスキル基準を標準化し、従業員自身がそれに沿って申請できる仕組みが整えば、事業ポートフォリオの変革に合わせた人材再配置がスムーズになるのです。
投資家は「伸ばしたい事業があるときに、どんな人材を育成するか」というストーリーを有報の中に読み取ろうとしています。個の育成と個を生かす組織づくりの有無が、投資判断を左右する時代に入っています。
エンゲージメントとサクセッションプラン
情報通信業界に見るエンゲージメントの重要性
本書では、情報通信業界において「社員のモチベーションと従業員エンゲージメント(働きがい)を上げる仕組みがあるかどうか」が特に重要視されると述べられています。企業カルチャーについては、「攻め」の視点(新しいビジネスアイデアやイノベーション)と「守り」の視点(心理的安全性の確保)の両面を気にする投資家が増えています。
後継者育成計画(サクセッションプラン)の開示
コモンズ投信の伊井哲郎氏は、ダイバーシティの実践としてサクセッションプランの重要性を強調します。特に女性の上級管理職比率をいきなり引き上げることが難しい場合は、まず全社員に占める女性比率を高め、各階層別に短期・中期・長期のマイルストーンを設定することが有効だとしています。
「人は財なり」という長期的な視点
SBIレオスひふみ 藤野英人氏の視点
SBIレオスひふみの藤野英人氏は、「人はコスト」という見方は短期的であり、長期的には「人は財なり」だと語ります。少子高齢化が進む日本では労働力不足が深刻になっており、賃上げ・インセンティブ・教育投資によって優秀人材を引き留め、それが企業成長を牽引する「好循環」を生み出すことが重要だと述べています。
同氏はまた、「長期で収益を上げるためには、ステークホルダー全体のバランスをうまく取って『ちょうどいい引き分け』を考えることが必要」とも説いています。誰かが一方的に負けると、それが会社の付加価値を下げる要因になるからです。
人への投資が財務に影響するまでの時間軸
本書では、「人への投資で財務にプラスの影響が出るまでには5〜10年程度かかる」と示されています。これは、人材投資の成果をすぐに求めることへの警鐘であり、投資家にも忍耐強い姿勢が求められることを意味します。
大和アセットマネジメントの寺島正氏は「人材は、投資した段階から減価することはない。成長し続ける資産だ」と言い切ります。ESGを「未財務情報」と捉えることで、人的資本への投資を長期的なバリュエーション(投資尺度)に組み込む独自の手法を実践しています。
人事部への期待:コストセンターから収益部門へ
本書に登場する藤野英人氏は、人事部に向けて「HRはコストセンターではなく収益部門なのだという発想で、自信を持って投資家とコミュニケーションしてほしい」と呼びかけています。これは、人事担当者が単なるバックオフィスではなく、企業価値創造の主役になれるというメッセージです。
人材投資の「定性的な側面」として、投資家が評価するのは企業カルチャー、従業員の雰囲気、心理的安全性の確保、ハラスメント防止、経営者の質、そして「未来への変化」です。これらは数値化が難しい指標ですが、投資家のエンゲージメント(対話)を通じて伝えられる要素です。
ダイバーシティ経営が企業価値にプラスに働く3つの理由
本書では、多様性が企業価値にプラスに働く理由として3点が挙げられています。
第一は、集団浅慮(グループシンク)がもたらすリスクの抑制です。同質的な組織では見落とされがちなリスクを、多様な視点が補完します。
第二は、イノベーションの創出です。異なる背景を持つ人材が交わることで、新しいアイデアが生まれやすくなります。
第三は、労働力不足への対応です。女性・シニア・外国人材など多様な人材を活用することで、人材確保の選択肢が広がります。
まとめ:「開示」と「実践」の両輪で企業価値を高める
本書が一貫して伝えているのは、「人的資本の開示はゴールではなく、経営改革の起点である」ということです。ストーリーをつくる過程で経営陣がコンセンサスを形成し、言語化することで戦略が洗練され、現場への浸透が促進されます。
2026年3月期からはさらに人的資本開示の拡充が予定されており、経営者・IR担当・人事担当が連携して有報の質を高めることが求められます。投資家に向けた「人的資本経営のストーリー」が、採用候補者にとっての「この会社で働きたい」という動機にも直結する時代が来ています。
本書は、IR・人事・経営企画のいずれの立場にいる方にとっても、実践的な示唆に富む一冊です。ぜひ手に取ってみてください。

