ダイナミック・ケイパビリティと両利きの経営~変化の時代を生き抜く組織の力~

はじめに
VUCAと呼ばれる変動性・不確実性・複雑性・曖昧性が高まる現代のビジネス環境において、企業が持続的な成長を実現するためには、環境の変化に対応して自己変革できる能力が不可欠です。この能力こそが「ダイナミック・ケイパビリティ」であり、既存事業の深化と新規事業の探索を同時に実現する「両利きの経営」の基盤となります。
本記事では、企業にとって両利きの経営が必要とされる理由と、人事担当者がダイナミック・ケイパビリティを推進するために抑えておくべきポイントについて解説します。
1. 既存事業と新規事業の両利きの経営が必要な会社としての特性
1-1. 両利きの経営とは
両利きの経営(Ambidextrous Management)とは、スタンフォード大学経営大学院のチャールズ・オライリー教授が提唱した経営理論であり、「主力事業の絶え間ない改善(知の深化)」と「新規事業に向けた実験と行動(知の探索)」を高いレベルで両立させる経営手法です。
右手と左手を等しく使いこなす「両利き」の人のように、既存事業と新規事業という性質の異なる活動を同時に推進することが、環境変化の激しい現代において企業の生存と成長を実現する鍵となります。
1-2. 両利きの経営が必要とされる企業の特性
(1) 急速な技術革新に直面している企業
AIやIoTなどの技術革新により、業界の構造や顧客体験が急速に変化している企業にとって、既存のビジネスモデルの最適化と同時に、新たな技術を活用した事業創出が求められています。例えば、製造業ではIoTを活用した予防保全サービスの展開と、従来の製品販売の深化を並行して行う必要があります。
(2) グローバル市場での競争に直面している企業
経済のグローバル化が進み、国際競争にさらされている企業は、既存の国内市場での地位強化と並行して、新たな海外市場への進出や現地ニーズに合わせた商品開発が必要です。異なる市場の要求に応えつつ、統一されたブランド価値を維持するには、両利きの経営が不可欠です。
(3) 顧客ニーズの多様化に対応する企業
顧客の価値観や購買行動が多様化・複雑化する中、既存顧客のニーズを満たしながら、潜在的な新規顧客層の開拓や新たな消費スタイルへの対応が必要な企業にとって、両方の活動を同時に進める能力が重要です。
(4) 業界の境界が曖昧になりつつある企業
デジタル化によって業界の垣根が低くなり、異業種からの参入や業界再編が進む中、コア事業を守りながらも、周辺領域への拡張や新領域の開拓を同時に行う必要があります。
(5) 成熟市場と成長市場の両方に関わる企業
成熟した市場での収益性向上と、新興市場での成長機会の獲得という、異なる目標を同時に追求する必要がある企業にとって、両方の市場特性に合わせた戦略の実行が求められます。
1-3. 両利きの経営を実践する企業の事例
カルビー株式会社
1949年創業のカルビーは、「あめ」から始まり、「製粉」「かっぱえびせん」「スナック」「シリアル」など、時代とともに新たな商品開発に取り組んできました。伊藤秀二社長兼CEOは「組織を強くするには、新しい事業に参入しないといけない」「新しい事業と旧来の事業を両方持って伸ばさなければいけない」と語っています。
AGC株式会社
世界最大級のガラスメーカーであるAGCは、「模擬スタートアップ」を社内に設置し、MBAや博士号を取得した社員を配置。平井良典社長執行役員CEOは「事業開拓室」の社員に対して「シリコンバレーのベンチャーキャピタリストになったつもりでやりなさい」と語りかけると同時に、既存事業の資産が活用できるよう橋渡しをしています。
富士フイルム株式会社
写真フィルム市場の急激な縮小という本業喪失の危機に際し、過去の技術資産の棚卸しを行い、医療・化粧品・再生医療などの成長分野へ事業を大胆に転換。長年蓄積した人材・ノウハウ・研究体制を、変化に応じて柔軟に再配置し、既存資産を最大限に活用して変化への対応力と競争優位性を両立させています。
※「両利きの経営」については、こちらもご覧下さい。
2. 人事担当者がダイナミック・ケイパビリティを推進するために抑えておくべきこと

2-1. ダイナミック・ケイパビリティの基本理解
人事担当者は、ダイナミック・ケイパビリティの本質と3つの構成要素を理解することが第一歩です。
(1) 感知(Sensing):変化を察知する能力
市場動向、技術革新、顧客ニーズの変化などを敏感に察知する能力です。人事は組織内の各部門から情報を収集し、外部環境の変化が人材ニーズにどう影響するかを分析する仕組みを構築する必要があります。
(2) 捕捉(Seizing):機会を捉える能力
感知した変化に基づき、適切な戦略を選択して行動に移す能力です。人事は必要なスキルセットを特定し、採用・育成・配置を戦略的に行うことで、機会を捉える組織能力を強化します。
(3) 変容(Transforming):組織を刷新する能力
企業内部の体制や文化を抜本的に見直し、継続的な競争力を確保する力です。人事は組織構造や評価制度を柔軟に変更し、変革を促進する文化づくりを支援します。
2-2. 人事施策によるダイナミック・ケイパビリティの強化
(1) 多様な人材の採用と育成
異なるバックグラウンドやスキルセットを持つ人材を意図的に採用・育成することで、組織の視野を広げ、変化への感度を高めます。具体的には:
- 異業種からの中途採用の強化
- ダイバーシティ&インクルージョンの推進
- T型人材(専門性と幅広い知見を併せ持つ人材)の育成プログラム
- クロスファンクショナルなキャリアパスの設計
(2) 挑戦を促す評価・報酬制度の設計
従来の業績評価だけでなく、挑戦姿勢や学びのプロセスを評価する仕組みを構築します:
- 挑戦プロセスを評価する指標の導入
- 失敗から学ぶ文化の醸成
- イノベーション推進に関する評価項目の設定
- 長期的価値創造を重視した報酬制度
(3) 人材情報の可視化と戦略的配置
個々の能力とキャリア志向を可視化し、組織のニーズに応じて柔軟に配置します:
- タレントマネジメントシステムの導入
- スキルマトリクスやタレントマップの活用
- 社内公募制度の活性化
- プロジェクト型の柔軟な組織体制の構築
(4) 組織の境界を越えた学習機会の提供
組織内外の知識を積極的に取り入れる機会を創出します:
- 社外研修やセミナーへの参加促進
- 副業・兼業の奨励
- 外部専門家との協働機会の創出
- 異業種交流会やハッカソンへの参加支援
(5) 心理的安全性のある文化づくり
失敗を恐れず挑戦できる環境を整えます:
- リーダーシップ研修での心理的安全性の重視
- 小さな実験を奨励する「プロトタイピング文化」の醸成
- オープンなコミュニケーションを促すオフィス設計
- 「学びの共有セッション」の定例開催
2-3. ダイナミック・ケイパビリティを高める人事部門の役割変革
(1) 戦略的パートナーとしての人事へ
人事部門自体が、単なる管理部門から経営戦略の実現を支援するビジネスパートナーへと変革する必要があります:
- 経営会議への参画と人材戦略の提言
- 事業部門との緊密な対話による人材ニーズの把握
- 人材データアナリティクスによる意思決定支援
- 環境変化を先読みした人材開発計画の立案
(2) 両利きの人事マネジメントの実践
人事部門自身も既存の制度運用(深化)と新たな人事施策の開発(探索)を両立させる必要があります:
- 既存の人事制度の効率化と並行した新しい施策の試行
- データに基づく人事制度の継続的改善
- 先進的な人事テクノロジーの積極的導入
- グローバルトレンドと自社文化の融合
(3) 組織全体のラーニングエコシステムの構築
組織全体が継続的に学び、変化に対応できる体制を構築します:
- 部門横断型の知識共有プラットフォームの整備
- 経験学習のサイクルを促進する仕組みづくり
- ナレッジマネジメントシステムの導入
- 社内外のベストプラクティスを共有する文化の醸成
まとめ:変化を力に変える組織へ
ダイナミック・ケイパビリティに基づく両利きの経営は、変化の激しい現代において企業が持続的に成長するための重要な考え方です。既存事業の深化と新規事業の探索という一見相反する活動を高いレベルで両立させることが、競争優位の源泉となります。
人事担当者は、このダイナミック・ケイパビリティを組織に根付かせる重要な役割を担っています。多様な人材の採用・育成、挑戦を促す評価制度、柔軟な人材配置、学習機会の提供、心理的安全性の高い文化づくりなど、様々な施策を通じて組織の変革力を高めることが求められます。
変化をリスクとしてではなく、成長の機会として捉え、常に自己変革を続ける組織こそが、これからの時代を力強く生き抜いていくでしょう。人事部門が戦略的パートナーとして経営に参画し、ダイナミック・ケイパビリティの強化をリードしていくことが、企業の持続的成長への鍵となります。
参考文献
- オライリー教授「変化の時代、両利きの経営を」- 日経ビジネス
- 「ダイナミックケイパビリティ(企業変革力)を促す人材マネジメント」- SmartHR SmartHR
- 「ダイナミック・ケイパビリティとは?意味や事例、3つの要素を解説」- HRMOS HRMOS
- 「両利きの経営とは? 既存事業と新規事業の両立に取り組む事例を紹介」- 日経ビジネス 日経ビジネス
- 「ダイナミックケイパビリティとは?基本理論・課題・活用事例」- d’s JOURNAL d’s JOURNAL