投資家の視点による中期経営計画とは:企業価値向上と人的資本の重要性

中期経営計画への注目が高まる背景
企業の中期経営計画(以下、中計)は、投資家と企業をつなぐ重要なコミュニケーションツールとして、近年その重要性が増しています。一般社団法人生命保険協会が実施した「企業価値向上に向けた取り組みに関するアンケート」によれば、「経営計画、経営戦略」に取り組みを強化したいと考える企業の割合は、2018年度の48.8%から2024年度には74.3%へと大幅に上昇しました。
投資家側も同様に、企業に対して経営計画や経営戦略の強化を期待する割合が50.0%から67.8%へと増加傾向にあります。この背景には、不透明な経済環境を乗り越えるための戦略的思考と、東京証券取引所による「資本コストや株価を意識した経営」への要請が大きく影響しています。
「失われた30年」と短期志向からの脱却
日本の株式市場は長期にわたり低迷を続けてきました。Factsetのデータによると、1994年9月を起点とした場合、S&P指数が11.3倍、MSCI world指数が4.9倍に成長した一方で、TOPIXはわずか68%の上昇(年平均成長率1.7%)にとどまりました。
この「失われた30年」を反省し、企業と投資家の双方が短期志向(ショートターミズム)から脱却する動きが本格化しています。2014年のスチュワードシップ・コード策定、2015年のコーポレートガバナンス・コード適用開始以降、投資家には中長期的なリターン拡大を目指す行動が、企業には持続的成長と企業価値向上に向けた戦略の策定が求められるようになりました。
東証要請がもたらした企業変革
2023年3月31日、東証はプライム市場とスタンダード市場の全上場企業に対し、資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応を正式に要請しました。この要請は「PBR1倍割れ対策」と誤解されることがありますが、実際には全上場企業に対して中長期的な企業価値向上の実現を促す施策です。
東証の継続的なフォローアップによれば、ROE目標やキャピタルアロケーション方針、バランスシート効率化に向けた取り組みを開示する企業が着実に増加しています。今後の課題は、開示された計画が実行に移されるかどうかであり、企業価値向上のストーリーとともに、今後5年間の具体的な道筋を示すことが求められています。
人的資本経営の重要性
企 業価値向上において、人的資本への投資と開示は欠かせない要素となっています。経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」では、人材を「資本」として捉え、その価値を最大限に引き出すことが持続的な企業価値向上につながると明示されています。
2023年3月31日以降に終了する事業年度にかかる有価証券報告書では人的資本情報の開示が義務化されました。具体的には、①人材育成方針、②社内環境整備方針、③指標・目標、④女性管理職比率、⑤男性育休取得率、⑥男女間賃金格差の6項目が開示対象となっています。
一方で、生命保険協会の2022年調査では、人材育成強化について企業側は67.1%が重視しているのに対し、投資家側は34.9%にとどまっており、認識のギャップが存在していました。しかし近年、投資家も人的資本高度化が企業価値向上の重要要因であると理解を深めつつあります。
投資家が重視する指標:実額より効率性
企業と投資家では、中計において重視する指標に大きな違いがあります。2024年の調査データによると、企業側は売上高や利益額といった実績の絶対額を重視する傾向がありますが、投資家は資本効率を示す指標により注目しています。
| 指標 | 企業の重視度 | 投資家の重視度 |
|---|---|---|
| ROE | 58.7% | 83.3% |
| ROIC | 17.6% | 51.0% |
| 資本コスト | 3.0% | 40.6% |
| 売上高・増収率 | 45.6% | 10.4% |
| 利益額・増益率 | 53.1% | 30.2% |
投資家がROE(自己資本利益率)やROIC(投下資本利益率)を重視する理由は、預かった資金を効率的に成長させることが使命だからです。資本効率が高い企業ほど、再投資による複利効果で中長期的に高い成長を実現できると考えられています。
ROEとROICの本質的理解
ROE(Return on Equity)は、株主から預かった資本でどれだけ利益を生み出したかを示す指標です。計算式は「純利益÷株主資本」となります。一方、ROIC(Return on Invested Capital)は、事業に投下した資金でどれだけ利益を生み出したかを測る指標で、「税引後営業利益÷投下資本」で算出されます。
投資家は「高い資本効率を維持し続けられるか」という点を最重視します。なぜなら、高いROICを持続できる企業は、再投資の複利効果により時間とともに大きく成長するからです。
資本コストとの比較の重要性
企業がROEやROICを開示しても、それを自社の資本コスト(WACC:加重平均資本コスト)と比較する視点はまだ少数派です。2024年調査では、資本コストを重視する企業はわずか3.0%にとどまっています。
しかし投資家の視点では、ROEが資本コストを上回っているかどうかが企業価値創造の判断基準となります。東証のフォローアップでも、「資本コストに対する理解は進んできている一方で、それをいかに経営に反映させるかという意識は依然として希薄である」と指摘されています。
ESGと非財務情報の重要性
国連責任投資原則(PRI)の署名機関数は世界で3,600以上に達し、運用資産残高は120兆ドル規模(2021年4月時点)に拡大しています。ESG(環境・社会・ガバナンス)への取り組みは、企業の持続的価値創造プロセスを維持・強化するものとして、投資判断において重要性を増しています。
ESGへの取り組みには二つの意味があります。一つは「守り」としてのリスク低減(検査不正、データ流出、サプライチェーン上の人権問題など)。もう一つは「攻め」としての競争力強化(優秀な人材確保、ブランド価値向上など)です。非財務情報は将来的に何らかの形で財務情報に転換されうるため、投資家はより中長期の視線でESG開示を評価しています。
中計策定の現状と課題
主要約200社のうち8割近くが中計を策定しており、平均期間は3.6年です。目標設定では売上・利益の金額目標が多いものの、ROEやROICなど効率を目標とする企業も増加傾向にあります。資本・バランスシート政策やESG(非財務)への言及も増えています。
ただし、達成状況は必ずしも芳しくなく、項目によりますが概ね5~7割程度にとどまっています。産業構造上、為替や原材料など外部要因により達成度が大きく変動する傾向があります。また、中計の前提である企業戦略の説明が不十分で評価しづらいケースも見られます。
投資家が求める中計のポイント
投資家が中計を評価する際の重要なポイントは以下の通りです。
- 経営陣のコミットメント:計画に対する真剣な取り組み姿勢
- 資本効率の明示:ROE、ROIC、資本コストの開示と比較
- 成長ストーリーの説得力:なぜその目標を達成できるのか
- 事業ポートフォリオ戦略:選択と集中の明確な方針
- 人的資本戦略:人材育成と組織能力の向上計画
- キャピタルアロケーション:資本配分の具体的方針
- 進捗の定期報告:計画に対する実績のフォローアップ
コミュニケーションの課題
企業と投資家の対話における課題も明らかになっています。生命保険協会の2024年調査によれば、企業側の課題として「対話リソース不足」が43.4%、「対話資料開示不足」が42.3%を占めています。
投資家側の課題としては、「経営層の対話関与不足」が42.4%、「情報共有化不足」が45.9%、「開示不足」が50.6%、「投資家による企業分析・理解の浅さ」が52.9%と指摘されています。双方が課題を認識し、建設的な対話を重ねることが企業価値向上の鍵となります。
まとめ
中期経営計画は、「失われた30年」の反省を踏まえ、日本企業の持続的価値創造力と国際競争力を取り戻すための重要なツールです。企業側は持続的な企業価値向上を実現する経営方針の開示と具体的な目標・実行策の説明が求められます。投資家側は中長期的視点に立った投資行動が期待されています。
特に人的資本経営の実践と開示は、今後ますます重要性を増していきます。従業員のスキル開発、エンゲージメント向上、多様性の確保などは、単なるコンプライアンスではなく、企業価値創造の源泉として位置づけられるべきです。
投資家が重視するのは、実額の大きさではなく資本効率の高さと、それを維持し続けられる持続可能な成長ストーリーです。ROE、ROIC、資本コストといった指標を適切に開示し、それらを事業戦略と結びつけて説明することが、投資家からの信頼獲得につながります。


