AI時代に人事部門が担うべき本質的な役割とは――「3E:感情・共感・経験」の重要性

はじめに
人工知能が急速に進化を遂げる現代において、企業の人事部門が果たすべき役割は根本から問い直されています。東洋大学経営学部の西村孝史教授は、人的資本経営における「戦略パートナー」としての人事機能について重要な指摘を行っています。
西村教授は、AI時代においても人が担うべき領域として「感情(Emotion)」「共感(Empathy)」「経験(Experience)」の「3E」を挙げ、人的資本を組織能力に変換するメカニズムの解明に取り組んでいます。本記事では、この考え方を軸に、AI時代における人事部門の本質的な役割について考察します。
人的資本経営における人事部門の現状と課題
2020年に経済産業省が公表した「人材版伊藤レポート」によって、人材戦略と経営戦略を連動させることで企業価値を高めることが求められるようになりました。この流れは、企業における人的資本への関心を大きく高めることになりましたが、同時に新たな課題も浮き彫りになっています。
戦略的人的資源管理(SHRM:Strategic Human Resource Management)は、人事管理をコストセンターではなく企業価値を生み出すプロフィットセンターとして「戦略パートナー」に位置づける考え方です。西村教授によれば、SHRM研究では人的資本経営で言われているようなトピックスが約30年以上前から指摘されてきましたが、「戦略パートナー」を自認している人事部門は増えてきたとは言え、まだ少ないのが現状だと指摘しています。
人的資本経営への関心は高まっているものの、人事部門が本来持つ専門性が十分に発揮されず、経営企画部門や財務部門の下で、データを集めて整理・提供する役割にとどまってしまうケースが多いことが懸念されています。
AI時代に人が担うべき「3E」という領域
西村教授が強調しているのは、AIが過去のデータに基づく最適化を得意とする今、人事が注力すべきは「感情(Emotion)」「共感(Empathy)」「経験(Experience)」の「3E」領域であるという点です。
AIは大量のデータを処理し、効率的な意思決定をサポートする能力に優れていますが、人間特有の感情や共感、そして長年の経験から生まれる洞察力を代替することはできません。これらの領域こそが、VUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)の時代において人事部門が発揮すべき真の価値となります。
人事部門は、従業員一人ひとりの感情に寄り添い、組織における共感の文化を醸成し、豊富な経験を活かして未来志向の人材戦略を描くことが求められています。単なるデータの収集や整理ではなく、人間ならではの感性と判断力を活かした戦略的な役割が期待されているのです。
ソーシャルキャピタルが組織能力を高めるメカニズム
西村教授の研究において中心的な概念となっているのが、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)です。ソーシャルキャピタルとは、職場における人と人とのつながりや信頼関係、ネットワークから生み出される価値を指します。
2024年に中央経済社から出版された西村教授の著書『職場のソーシャルキャピタル――人的資源管理が創り出す個と組織の関係性』は、第24回日本労務学会学術賞を受賞しており、人事管理が従業員の人脈形成に与える影響について様々なデータを用いて解明しています。
この研究によれば、人事部門は能力開発施策やジョブローテーション、人事異動といった施策を通じて、職場のソーシャルキャピタルを意図的に高めることができます。ソーシャルキャピタルが高い職場では、生産性が向上し、研究開発の成果も向上するという結果が示されています。
つまり、人的資本を単なる個人の能力の集合として捉えるのではなく、組織内の関係性を通じて組織能力に変換していくプロセスこそが、人事部門の重要な役割なのです。
戦略パートナーとしての人事部門の役割
AI時代における人事部門が「戦略パートナー」として機能するためには、以下のような役割を果たすことが求められます。
まず、経営戦略と人材戦略を真に連動させることです。これは単に経営計画に合わせて採用計画を立てるといった表面的な連動ではなく、事業の成長戦略を実現するために必要な人材要件を明確にし、それに応じた育成・配置・評価の仕組みを構築することを意味します。
次に、人的資本情報の可視化と開示に戦略的に取り組むことです。2023年度からは有価証券報告書における人的資本情報の開示が義務化されており、国際的なガイドラインであるISO30414も注目されています。しかし、単なる情報開示にとどまらず、これらのデータを経営判断に活用し、投資家や従業員とのコミュニケーションツールとして活用することが重要です。
さらに、組織文化の形成と変革を主導することも人事部門の重要な役割です。3Eの領域である感情・共感・経験を活かし、従業員が心理的安全性を感じながら働ける環境を整備し、イノベーションが生まれる組織文化を醸成していくことが求められます。
人的資本を組織能力に変換する具体的アプローチ
人的資本を組織能力に変換するためには、具体的にどのようなアプローチが有効でしょうか。
西村教授の研究が示すように、能力開発施策は職場のソーシャルキャピタルを高める有効な手段です。研修やワークショップを通じて、従業員同士が互いに学び合う機会を創出することで、信頼関係やネットワークが構築されます。このような学習共同体の形成は、個人の知識やスキルを組織全体の知恵に転換する基盤となります。
また、戦略的な人事異動やジョブローテーションも重要な施策です。異なる部署や役割を経験することで、従業員は多様な視点を獲得し、組織内のネットワークを広げることができます。これにより、部門を超えた協働が促進され、組織全体の問題解決能力が高まります。
さらに、心理的安全性の高い職場環境を整備することも欠かせません。従業員が安心して意見を言える環境、失敗を恐れずにチャレンジできる文化があってこそ、個々の創造性が発揮され、組織のイノベーション能力につながります。
AI時代における人事の専門性の再定義
AIの進化により、従来人事部門が担ってきた業務の多くは自動化される可能性があります。採用候補者のスクリーニング、勤怠管理、給与計算といった定型業務は、すでにAIやシステムによって効率化が進んでいます。
しかし、これは人事部門の存在価値が低下することを意味するのではありません。むしろ、定型業務から解放されることで、人事担当者はより戦略的で人間的な業務に注力できるようになります。
日本総合研究所の報告書によれば、AI時代における人事部門は、AIが代替できる業務は手放し、人間ならではの強みを発揮しながら、事業戦略と人材戦略をつなぐ橋渡し役となることが求められています。
これは、人事の専門性を再定義する機会でもあります。組織開発、タレントマネジメント、エンゲージメント向上、リーダーシップ開発といった高度な専門領域において、人事担当者の役割はますます重要になっていきます。
今後の人事部門に求められる視点
AI時代の人事部門には、以下のような視点が求められます。
一つ目は、長期的な視野を持つことです。AIは過去のデータに基づいて最適解を導き出しますが、人事部門は10年先、20年先を見据えた人材育成や組織づくりを構想する必要があります。将来のビジネス環境の変化を予測し、それに対応できる組織能力を今から築いていく戦略的思考が不可欠です。
二つ目は、データと人間性のバランスを取ることです。人的資本の可視化やデータドリブンな意思決定は重要ですが、同時に従業員一人ひとりの個性や感情、キャリア志向に寄り添う姿勢も忘れてはなりません。数字では測れない人間の可能性を信じ、育てることが人事の本質的な役割です。
三つ目は、組織の境界を越えた視点を持つことです。働き方の多様化が進む中、正社員だけでなく、契約社員、派遣社員、フリーランスなど、様々な形態で働く人材を含めた全体最適を考える必要があります。また、社外のパートナー企業やコミュニティとの連携も視野に入れた、オープンな人材戦略が求められます。
まとめ
西村孝史教授が指摘する「3E(感情・共感・経験)」の概念は、AI時代における人事部門の本質的な役割を示す重要な指針です。AIがデータ処理や効率化において優れた能力を発揮する一方で、人間ならではの感性や判断力を活かした戦略的な人事機能の重要性はむしろ高まっています。
人事部門は、単なるデータ提供者ではなく、経営戦略を実現するための「戦略パートナー」として機能する必要があります。そのためには、人的資本を組織能力に変換するメカニズムであるソーシャルキャピタルに注目し、従業員間の信頼関係やネットワークを構築する施策を戦略的に展開することが重要です。
AI時代だからこそ、人事部門は人間の可能性を最大限に引き出し、組織全体の成長を支える役割を果たすことが期待されています。技術の進化を恐れるのではなく、それを活用しながら、人間ならではの価値を創造していく――これこそが、これからの人事部門に求められる姿勢ではないでしょうか。

